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貿易と通関の今昔~繊維商社アパレル貿易の舞台裏 9

2000年代の商社の繊維貿易 番外編 4

~希望から苦難へ。繊維商社が挑んだミャンマー貿易奮闘記~

ミャンマーに繊維貿易の生産拠点を移したが、結果としてコスト・品質・納期の全てが悪化――
このような声が近年、繊維業界で増えつつあります。この記事では、実際に起きた失敗事例とその原因を、CMT契約・通貨リスク・生産管理の側面から解説します。

ミャンマー

こんにちは。

シリーズにてお届けしている「貿易と通関の今昔~繊維商社アパレル貿易の舞台裏」。

今回は

「2000年から2010年の10年の繊維貿易 番外編 ミャンマー・バングラデシュ 完結 」

をお届け致します。

前回の記事では、主にバングラデシュとの取組についてお話させて頂きました。

そこで、今回はミャンマーとの繊維貿易の取組についてお話させて頂きます。バングラデシュとの取引同様に、ミャンマーへの取組を若かりし筆者は希望を持って始めたのですが、、、

バングラデシュとの取引同様にとても辛い苦難の連続となるのでした。

ミャンマーへの海外送金の通貨

アパレルメーカーのCMTとは?

ミャンマーでの加工賃CMPとは?

物流リードタイム

よもやま話いろいろ

ミャンマー生産での期待に反する結果

失敗からの学び

アセアン生産を始めた繊維商社の苦労

ミャンマーへの海外送金の通貨

当時のミャンマーも現在同様に、政治的に軍部とアウンサンスー・チーさんが掲げる民主化運動の対立は激しかったです。そして同時に、アメリカからの経済制裁を受けていました。そう言った意味では、カントリーリスクは比較的高い国だったと言えます。

当時、アメリカの経済制裁の影響をうけていました。そのため、ミャンマーとの貿易取引において、決済通貨としてのUSドル使えませんでした。海外送金の実務上、ミャンマーにUSドルでの支払いができませんでした。商習慣として、製品の値段の建値(Trade Term)は、USドルで決めていました。しかし、ミャンマーへの送金は、日本円で行っていました。当時、繊維商社の海外取引の中では、不思議な決済方法が行われていました。

2000年代のミャンマーにあった縫製工場

現在、多くの中国企業がミャンマーに進出しています。当時、中国企業を含めた海外企業は、殆どミャンマーに進出していませんでした。そのミャンマーにあるのは、現地資本の縫製工場か、韓国系の縫製工場があるだけでした。

またその当時、既にミャンマーには日本向けのオーダーをやって居る縫製工場が、何軒かありました。そのほぼ全ての縫製工場が、ユニフォーム業界向けのオーダーを生産していました。具体的には、ワーキングの作業着や、病院で医師やナースが着る白衣の縫製でした。筆者が発注しようとして居たカジュアル衣料の製品の生産経験はありませんでした。

しかしながら、日本向けの製品品質基準や、日本の考え方を知って居ると云うのは、とても心強かったとも言えます。いっぽうで、このユニフォーム業界のオーダーに慣れていた事がミャンマーでの生産のネックにもなります。それは、後ほどお話します。

ミャンマーへ発注する繊維貿易のメリット

ミャンマーからの日本への輸入には、特恵関税のメリットがありました。 そう言った状況下で、ミャンマーとの繊維貿易の取組は、布帛のシャツや、パンツの製品を発注する事になりました。

前回の記事で書いた通り、ミャンマーには原材料の生地工場、副資材屋さんなど、中国には普通にある資材を手配する会社が、ほぼありません。その為、原材料は、表生地、ボタンから縫い糸までを、第三国からミャンマーに送り込む必要がありました。

ミャンマーから日本への輸入品に関しては、特恵関税が適用されます。そのため、日本へ無税で輸入出来る事ができました。その結果、資材を提供する事によるデメリットよりも、むしろコストメリットがあった為にミャンマーへ発注が出来た事になります。

アパレルメーカーのCMTとは?

第三国から原材料をある国に輸出して、そこで賃加工をして再輸出する貿易取引。一般的に、この貿易取引の形態を、加工貿易と云います。

その時の賃加工の値段を、繊維業界では、一般的に加工賃“CMP”と言います。

筆者は、加工貿易の取引がそんなに多くありませんでした。ごくごくまれに、中国との取引に於いて、加工貿易をしていました。それは、日本(もしくは台湾など第三国)から表生地を、中国の工場に送り込み、縫製する取引でした。当然ながら、表生地等は我々バイヤーが無償(有償の場合もありましたが、無償で提供する事の方が多い)で提供しています。そのため、表生地などの材料費を引いた値段で製品代を取り決めしたりします。ですが、その際に製品加工賃、いわゆるCMTは幾ら??みたいな言い方をしていました。これは、繊維貿易業界での言葉なので、正式な言葉では無いかも知れません。そのCMTとは、Cutting, Making & Trimming の略です。

ミャンマーでの加工賃CMPとは?

いっぽう、ミャンマーでは、加工賃の事をCMTでは無く、CMPなんて言い方をしていました。CとMは、中国の時と一緒でCutting, Makingですが。そして、Pは、Poly Bag の意味です。製品を入れるポリ袋だけはミャンマーで手配する。それ以外は、買主手配です。なので、その値段は、包装資材も含む、みたいな意味です。そこで、ミャンマーでの加工賃の事を、CMPと言っていました。その位、当時のミャンマーは、現地で手配出来るものが殆どありませんでした。そのため、あらゆる原材料を第三国から持込をする必要がありました。

資材持込と貿易事務の手間

この資材持込と云うのが、物凄く手間でした。そして、ミャンマー生産の一番の重要事項と言っても良いかと思います。

製品を発注する際の事です。

パンツやシャツで使う本体生地などは、中国・台湾・日本の生地、をお客さんと選定して個別手配して居ました。

それ以外の資材は、例えばボタンや、ファスナー、縫い糸、ストラップテープ、洗濯ラベル、、、、

等々本当に多くの種類があります。これらの本体生地以外を、副資材と呼びます。

これらの副資材を全て自前で手配するには、膨大な事務作業の負担がありました。

その事務作業とは、下記のような事です。

ミャンマー繊維貿易のアウトソーシング

繊維貿易
貿易事務のアウトソーシング

通常、ミャンマーとの繊維貿易の取引には、専門の付属商社さんに手配をお願いしていました。対価として数%マージンを渡していました。そして、細かな原材料の手配、ミャンマーへの輸出、それに必要な書類の作成などの段取りを全てやって頂いていました。かなり細かな作業となる為に、専門の業者さんのサポートは必要不可欠でした。これは、先ほど紹介したユニフォーム業界向けで行われて居る取引手法だったので、それをやって居る附属業者さんにお願いして対応して貰いました。

物流リードタイム

そして、もう一つミャンマーの特徴は、物流のリーダタイムがやたらと長い事です。

現在は、当時と比較すると、もう少し短くなって居るかも知れません。

当時、日本の主要港とヤンゴン間の船便におけるリードタイムは、45日程度でした。これは、製品をミャンマーから出荷して、日本へ輸入する際に掛かる船便の所要日数です。資材を、日本からミャンマーへ送り込むときも、同じように45日必要です。即ち、原材料の送り込みで45日、製品の出荷で45日、合計90日3ヶ月も輸送に費やしていました。当然ながら、裁断や、縫製、仕上げなどの製品の生産は別途日数がかかります。この為、当時、ミャンマーでの生産リードタイム(発注から、納品に至るまでの時間)は、少なくとも半年は掛かると言っていました。

ミャンマー貿易のリードタイム90日

流行に左右される業種である繊維業界にとって、90日は致命的な問題です。小売りの発注者たちは、なるべくそのシーズンに売れる色やデザインを見極めてから、発注したいと考えます。いっぽう、生産者側は生産リードタイムが長いのでなるべく早く発注したい。と云う矛盾が生じる訳です。ユニフォーム業界だけが、ミャンマーで生産実績がありました。これは、もともとユニフォームに流行りすたりが少ない事に起因しています。つまり、長い生産リードタイムでも受けるデメリットが少ないと云う事が原因です。

双方の希望をまとめると下記の通りです。

小売り目線生産者目線
販売重視 流行と需要を見据えた発注を望む生産リードタイムを重視 原材料調達から生産と併せて 物流の所要日数も考慮する

なぜミャンマーとの所要日数は、やたらと時間が掛かるのか?

それは、日本からミャンマー向けコンテナ船は、直航便がありませんでした。ヤンゴン港の入港、出港は、フィーダー船を使用していました。

フィーダー船とは、小型のコンテナ船で、大型のコンテナ船が入港できない港に対しての輸送を担います。

多くの場合、シンガポールの港をハブにして、通常のコンテナ船とフィーダー船へコンテナを積み替えていました。フィーダー船は、通常のコンテナ船よりも遅い為、コンテナ船よりも時間が掛かっていました。シンガポールでの積み替えに、どうしても数日、もしくは1週間の積み替え待機の時間が発生する為、全体の輸送期間が長くなってしまいました。

ミャンマー繊維貿易において、効率的な物流手配の重要性

これらの輸送に伴う所要日数を考慮して、ミャンマーとの繊維貿易の取組に関しては、効率的な物流を段取りする事が必要不可欠でした。

荷物を送り込む際、コンテナ船やフィーダー便の手配において、如何にスムーズにシンガポールで荷物の積み替え出来る様に段取り組むかが、とても重要でした。なので、物流会社の人とは密に連絡を取りました。そして、資材の輸出や、製品の輸入にとって最適なコンテナ船、フィーダー船の段取りを確認して居りました。

当時のミャンマーの物流事情を知りたい方はコチラ

ミャンマー国際物流と貿易構造 ー ヤンゴン港の港湾事情を中心に2000年〜2010年

余談ですが、

このブログを掲載しているHPの会社DIGISHIPの山田俊哉氏とは、このミャンマー向けの物流の件で知り合う様になったのです。お互い、現在とは別の会社に在籍していて、シンガポールでの積み替えがスムーズに行く物流の段取り等のアドバイスを頂いて居りました。あれから15年以上経っていますが、その時の縁がこうしてブログ記事を私が書き、それを山田俊哉氏が在籍しているDIGISHIPのHPに掲載させて頂く様な関係になるとは、、、

何か感慨深いものがあります。

よもやま話いろいろ

ここでちょっと休憩がてら、雑談を入れさせて頂きます。

ミャンマーでの車・交通事情

筆者が、発注したのは、ヤンゴン近郊の縫製工場です。ヤンゴンの中心地を起点に、車で2時間位の距離にありました。このブログでも、度々紹介して来た、発展途上国の車の運転あるあるです。紹介した中国、バングラデシュとも運転が酷く荒く、命の危険を感じる事が度々ありました。

ところが、ミャンマーの運転は、至って平和で安全運転でした。なので、ストレスなく安心して乗れたのをよく覚えて居ます。

ちなみに、ミャンマーには日本の中古車が多く輸入されていました。街中を“田中工務店”って書かれたライトバンや、“阪南交通”と書かれたバスなど、日本語の社名とかが印字されたままの中古車がたくさん走っていました。それらの日本の中古車は、走行キロ30万キロ以上なんて車もザラにありました。

信仰篤い仏教徒が多いミャンマー

ヤンゴンの街角
ヤンゴンの街中で托鉢する袈裟を着た若いお坊さん

そしてミャンマーは、とっても信仰深い仏教徒が多い国です。街の至る所に黄土色の袈裟を来たお坊さんが歩いて居たりもしてました。

筆者が、バングラデシュ・ミャンマーに出張する際の。旅の工程の都合上、先にバングラデシュに入り、その後でミャンマーに行く事が多かったです。ミャンマーに到着後、通りにお坊さんが歩いて、そこに日本語が掛かれた車も走っていました。このミャンマーの街中の光景は、バングラデシュと比べて、とても安心感を得る事が出来たのを覚えて居ます。

もうひとつのよもやま話

癒しのバンコクです。

番外編の前半の記事でも書かせて頂きました。

バングラデシュや、ミャンマーへの出張の際、直行便が無い為に、バンコクを経由して行っていました。縫製工場への訪問や、顧客のアテンドなどで、バングラデシュやミャンマーへ出張に何度か行く様になりました。そして最初は、飛行機に乗る回数が増え、移動時間も余分にかかる為に面倒だと思っていました。しかし、バンコクを経由する事が、精神安定上必要不可欠な状態となってきました。

Bangkok
バンコクの歓楽街

ご存じの方もいらっしゃると思いますが、

バンコクには、日本料理屋が多数あります。マッサージ(まじめな方)、カラオケ店、ちょっとエッチなお店等々…もあります。歓楽街としての完成度が極めて高いのは、ご存じの通りです。

バングラデシュに入る前、ミャンマーから帰って来た時など、バンコクで疲れを癒して、気持ちをリフレッシュさせて居たのは言うまでもありません。ちなみに、お客さんが来た時のアテンドもバンコクでしていました。

「 明日からバングラデシュですから、今日はバンコクで英気を養いましょう! 」

とか、

「 出張お疲れ様でした。今日は、バンコクで疲れた身体と疲弊した精神を癒しましょう! 」

みたいな事を言っていました。

お客さんと、どんちゃん騒ぎして、バングラデシュでお酒が飲めなかったうっぷんを晴らしていたのかも知れません。

バングラデシュからのバンコク

特にバングラデシュは、食事も美味しくないし、お酒も殆ど飲めませんでした。そこから戻って来て、バンコクの街に繰り出すと、本当に夢の国に来たみたいな気持ちなったものです。

バングラデシュで知り合った、現地の縫製工場で働く日本人の方は、3ヶ月に一度バンコクにリフレッシュ出張するのを楽しみにしていました。当時、その方の会社は、バングラデシュでの業務があまりに過酷だったそうです。それを理由に、3ヶ月に一度バンコクに出張と云う名目で、リフレッシュに行く事を許可して居るとの事でした。

また、ミャンマーで知り合った日本人の方も、似たような状況でした。その人は自腹でしたが、数カ月に一度はバンコクに買い物に行っているとの事でした。

それほど、バングラデシュやミャンマーでの業務は、過酷であったと云う事です。。

ミャンマー生産での期待に反する結果

最後に、筆者のミャンマー繊維貿易の取組ですが、結果としては失敗に終わります。

理由は、主に2つあります。

対策を講じたが、

先ほど述べた様に、対策を講じていました。

お客さんもなるべく早くオーダーしてくれました。そして、比較的納期の長い定番品を発注してくれたりしました。また、工場側もなるべく早く、機動的に生産してくれるように対応してくれては居ました。

仕様変更が当たり前のアパレル

ただ、予定には無かった仕様変更(例えば、シャツのボタンの色を変更)が発生したりする事も多かったです。商品として見るとちょっとした変更です。しかし、デザイン的にはイメージががらりと変わったりします。そのため、より良い商品を販売したいお客さんや、更にその先の小売店の要望で変更依頼が来たりします。

中国で生産していた場合は、縫製工場に対して一言ボタンの色を「これに変更する」と連絡すれば、直ぐにボタン問屋から変更の色のボタンを買って来てくれました。そのボタンを縫製すれば、問題ありませんでした。ところが、ミャンマーの場合はそうではありません。追加でボタンを日本から送り込まなければなりません。更に、もともと送り込んでいたボタンをどうするのかという問題も出て来ます。

仕様変更に不慣れなミャンマーの縫製工場

繊維の縫製工場
縫製工場のミシン

ミャンマーの縫製工場側は、本生産直前になってボタンの色を変更される様な事に慣れていません。その為に、混乱してラインがぐちゃぐちゃになったりします。縫製ラインに拠って変更前の色のボタンで縫製してしまったり、変更後の色のボタンで縫製したり、とめちゃくちゃの状況となったりします。これは一例ですが、一事が万事こんな感じでした。中国では普通に出来ている事をミャンマーの工場に要求した為に、縫製工場側が混乱して問題が発生するパターンが多かった気がします。

失敗からの学び

ただ、これはミャンマーの縫製工場側の問題と云う訳ではありません。

我々発注者が縫製工場の個性を十分に理解した上で、工場の得手不得手を理解し、工場管理を実施する必要があったと思います。当時は、それが出来て無かった為だと思います。

現に、縫製不良、汚れ不良等の縫製に関する不良は、殆ど発生して居りません。縫製工場としての品質管理体制はとても良かったと思います。ただ、日本側の細かい要望を応える小回りが利かないと云うだけです。

ミャンマー生産で問題だったのは、、、

その縫製工場特性を理解できずに、発注を続け居ていた当時の筆者に他なりません。正確に言えば、特性は理解しました。何よりも、お客さんを上手くその様に説得したり、その様な取組が出来る様に、縫製工場と関係構築が出来なかった事が大きいです。

アセアン生産を始めた繊維商社の苦労

前回の記事で書かせて頂いた通り、筆者はバングラデシュでの取り組みも失敗して居り、希望を持って意気揚々と始めたバングラデシュ・ミャンマーとの取組は、共に失敗に終わると云うたいへん悲しい結論でした。

この記事を書きつつ思い出したのですが、思えば筆者の担当して居たお客さんを担当して居る競合商社の人も同じく、バングラデシュ、ミャンマーとの繊維貿易で苦しんでいました。話を聞くと、ヒーヒー言って居たのを思いだしました。

今では、チャイナプラスワンや、脱チャイナの動きの中で、普通に色々な衣料品店で、原産国 ミャンマーやバングラデシュを見る事が増えました。ここまでミャンマー製や、バングラデシュ製が一般に普及する様になるのは色々な人の苦労の末の結果なんだろうなと、苦労した一人としてしみじみと感じる次第です。

ミャンマー繊維貿易のまとめと改善ポイント

2000年から2010年の10年の繊維貿易 番外編 ミャンマー・バングラデシュ は、以上です。

次回からは、繊維貿易の今昔の話に戻りまして、次の10年である2011年~の2020年の繊維貿易を書かせて頂く予定です。よろしくお願いします。

ヤンゴンの当時の貿易・物流情報はコチラ

ミャンマー国際物流と貿易構造