こんにちは!
このシリーズでは、繊維商社やアパレル貿易にまつわる話を、分かりやすくお届けします。
「商社の営業って何してるの?」「貿易事務って実際どうなの?」そんな疑問にお答えしながら、業界の昔と今、現場のリアルな体験を語っていきます。
初めての方でも楽しめる内容にしていきますので、ぜひ気軽に読んでみてくださいね!
1990年代、繊維業界は生産拠点の移動や市場構造の変化など、大きな変革期を迎えていました。商社における繊維貿易の形も進化を遂げる中、当時の商社はアパレルメーカーを中心とした取引で生産管理や貿易業務を支えていました。
本シリーズでは、その時代を振り返り、商社の役割や業界の変化についてリアルなエピソードを交えて紹介していきます。
当時、量販店向けのカジュアル衣料の生産地は韓国・台湾から中国へと移行し始めていました。商社の役割は、アパレルメーカーから受注した製品を海外で生産するための調整や、品質・納期管理に重点が置かれていました。現在のような自社企画商品や直貿はまだ一般的でなく、商社は貿易やファイナンスの面で業界を支えていました。
筆者が担当した名古屋・岐阜地区のアパレルメーカーでは、出生数の減少によりベビー服市場が縮小し、多くのメーカーが苦境に立たされていました。厳しい環境の中でも、商社営業として現場の声に耳を傾け、信頼関係を築きながら取引を進めていきました。その過程で得た教訓や貴重な体験が、後の商社営業スタイルに大きく影響を与えました。
1990年代、商社は円建て販売・ドル建て仕入れを行い、為替リスクを負っていました。為替予約が間に合わないことでコストが変動し、営業の裁量が求められる場面が多くありました。その後、為替リスク管理のルールが整備され、効率的な対応が可能となりました。これにより、商社はより安定した取引基盤を構築していくことができました。
1990年代の繊維貿易は、生産地の移動や市場の変化に対応しつつ、商社がその役割を模索する時代でした。アパレルメーカーを支えるパートナーとして、商社は生産・貿易・ファイナンスを通じて業界を支えました。当時の経験や課題解決の取り組みは、現在の商社業務やチーム営業スタイルの原型となり、業界の進化を導く基盤となっています。
こんにちは。
筆者は、商社で繊維製品の輸入業務に新入社員時代から20年以上関わって参りました。その期間の中で、繊維貿易の形は、少しずつ変化して来ました。これから数度に分けて、その経緯を当時の思い出話も交えつつ紹介させて頂きます。
繊維製品の輸入と言っても、現在はアパレル企業や、小売企業が自社ブランドで直接輸入する直貿(直接貿易)が普通に行われております。筆者が新入社員だった1990年代はそんな言葉すら存在せず、アパレルメーカーに韓国・台湾・中国から輸入した商品を卸すのが、主な業務でした。商社の役割、機能も今と昔では、大きく異なります。第一回となる今回は、その時の話をさせて頂きます。
いわゆるボリュームゾーン(当時で云う、ダイエーや、ジャスコ、イトーヨーカドー…等の量販店で販売されるカジュアル衣料、普段着)の生産地が韓国や台湾から、より価格の安い中国にシフトし始めた時期になります。現在の主流となる、自社ブランドの直貿は当然始まって居らず、後に良く言われたODM、OEMと言った言葉もまだ存在せず。当時は、ユニクロや、しまむら、等も今ほどの存在感が無く、消費者にとってのカジュアル衣料・日常的な服は、量販店で買い求めるのが通常だったと思います。
商社は、アパレルメーカーとの取引が中心で、アパレルメーカーが企画した各量販店向けの製品を海外製造するのが商社の役割でした。アパレルメーカーは、アパレルメーカーの持つブランドを各量販店向けに企画・デザインし、それを商社に発注。商社は、製品の特長、品質、納期、価格等に併せて海外の最適な仕入れ先への発注をしてました。アパレルメーカーは、基本的に一つの製品を色々なお客様の量販店に販売して居たので、同じ製品が色々な量販店で販売されてました。
販売力のある量販店は、別注品と云う、通常の企画商品とは別に自社の為だけの規格製品をアパレルメーカーに企画発注もしてました。 今の様に、商社が企画デザインする様な事は無く、製品企画はアパレルメーカーに任せ、もっぱら生産や、貿易、ファイナンスの部分が商社に求められる当時の役割でした。
筆者が最初に配属された名古屋繊維部隊で担当したのは、ベビー・子供服。名古屋・岐阜地区、いわゆる名岐地区にあるベビー・子供服のアパレルメーカーへの営業担当をしてました。
1970年代は年間200万人を超えて居た出生数が1990年代には120万人以下となる大幅な減少をしている状況の中、ベビー・子供服のアパレルメーカーは各社ともかなり、業績不振に陥ってました。当時私が担当して居たアパレルメーカーでも数社は、その後数年以内に倒産もしくは、廃業して居ります。
新入社員で右も左も判らない私を様な担当者に対して嫌な顔もせず、丁寧に仕事の事、子供服の事、社会の事を教えて頂ける様な親切な人が多かったのを覚えて居ります。
ところで、昨年2023年の出生数は、約73万人で、私の生まれた1973年がピークで204万人。およそ3分の一です。この出生数の減少のスピードをこうしてみると、改めて日本の少子高齢化問題が深刻な状況下に陥って居るのが判ります。本当に子供&子供を産む若い人たちを大切にしないとなりません… 脱線しました。
私が担当して居た、ベビー・子供服の内、ベビー服(生後24カ月以内対象)には、家庭用品規制法によってホルムアルデヒド(ホルマリン)の基準値が設定されており、基準値16ppm以下である事と定められてます。これ以上の数値が出た場合、保健所からの行政指導が入り商品の撤去等が求められることとなります。その為、ベビー服に関しては、ノンホルマリンの染料や、原材料を使用すると云うのは当然として、ホルマリンは目に見えず、空気中で移染する事もある為に、例えば、大人用の衣料品とは別の生産ラインで生産するとか、とても厳密な生産管理が要求されます。
その為、通常の衣料品よりも難易度が高く、また管理プロセスもより厳しくなる事、万が一ホルマリンが検出されると大きな問題になる事もあり、商社としては美味しい(儲けやすい)商材ではありませんでした。
私も生産した製品が何度か、店頭での保健所の抜き取りホルマリン検査に引っ掛かり、保健所への謝罪に客先の担当者と出向いたり、該当商品を店頭から回収し、洗浄してホルマリンを除去(ホルマリンは水に溶けやすい)し、再度店頭に納品する作業等を経験しました。なかなか出来ない経験で、今でも鮮明に覚えて居ります。
新人の私は、営業先のアパレルメーカー(以後客先)に出向き、仕様書を貰い、それを基に数社の貿易公司(詳しくは後述)に見積を依頼。
その中から一番安く、希望納期に合う見積を客先に報告。
その見積が客先の希望値に合う、もしくは近ければ、めでたく受注となります。
言葉にすれば、数行で終わりますが、実際は客先の希望値に近い値段で見積が出て来る場合は、殆どありませんでした。殆どが希望値よりも高い場合で、その場合は客先及び貿易公司と何度か交渉しながら落としどころを探し、双方の妥協点を見出してました。逆に、客先の希望値よりも安い見積が来ることもありました。その場合は、そのまま客先に報告するのではなく、適正な値段に価格調整して客先に報告してました。
それは、当時のお客様との取引が円建て、簡単に言うと円で販売していたからです。
1997年当時は、客先との取引は殆ど円建て、即ち日本円での販売をして居りました。商社は、US$で貿易公司と契約し、製品代はUS$で支払ってましたが、いっぽうで客先への販売は円で行い、製品代金を円で受け取ってました。それは即ち、為替リスクは商社が負担と云う事です。当然ながら、為替レートは日々変動して居り、製品代をUS$で支払う時期と、製品代を日本円で貰う時期は、必ずしも一致して居る訳では無いので、契約が決まった時点で、支払い必要となるUS$を予め銀行に依頼し、予約して輸入時に適用する為替レートの確定をする事となります。これを為替予約と言います。
当時は、為替リスクに対しての明確な社内ルール等も存在せず、受注した後直ぐに為替予約しなかった時は、受注時のコスト計算をしていた想定レートから、実際の為替レートが大きく変動して、採算が大幅に変わる(契約時より円安になったら製品コストは上がり、円高になったら製品コストは下がる)と云う事も頻繁にありました。 何となく、契約が決まったら直ぐに予約しろと上司や先輩に言われてましたが、為替は水物、忙しさにかまけて一週間ほど為替予約を放置して居たら、為替が思わぬ円高になり、厳しかった採算が良くなったりする事もあり、ついつい放置する傾向があったのが事実です。
同様に客先が契約決定後に、為替が円高になったからと言って、一度決めた製品の値段を値切って来るような事も頻繁にありました。実際は為替予約して無かったのに、為替予約してあるから無理と断ったり、取引の関係上、少しは値下げを認めたりしてました。
その後、為替を未予約時の円安に伴う大幅な採算レート悪化による大きな損失、もしくは大量の為替予約残が発覚するなど大きな問題が発生して、為替予約に関する明確なルールが決められるのは、2000年以降になってからの事だった様に思います。契約したらすぐに予約、客先への為替連絡をFaxやMail等で行い文書を残す様にしたり、契約金額と為替予約の金額の際が無いかのチェックを管理部門が行ったりと、システムとして為替で発生する損失に備える仕組みが出来て行きました。
当時の営業は、完全な個人営業スタイルで、現在の様にチームで組織的にやるような営業ではありませんでした。
一部では組織的にやる部隊も出始めてましたが、少なくとも私所属した名古屋の部隊は完全な個人商店スタイルでした。
それは良い面、悪い面とも両方あったとは思うのですが、徐々に組織、チームで仕事をする流れが主流となって行った気がします。
次回は、そこの辺の所をもう少し説明しつつ、当時の繊維貿易で欠かす事の出来ない、中国側の窓口、貿易公司に関しても説明して行きたいと思います。
このシリーズ「 貿易と通関の今昔~繊維商社アパレル貿易の舞台裏 」をお読み頂いた方には、「 商社で働く!アパレル貿易と通関の現場のリアル 」もオススメです。商社のお仕事を紹介していますので、併せてお楽しみください。
◇製作協力
株式会社JJコーポレーション 吉田修さん