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貿易と通関の今昔~繊維商社アパレル貿易の舞台裏 7

~ 2000年代の商社の繊維貿易 番外編 2 ~

こんにちは。

過去数回に分けて2000年から2010年の10年の繊維貿易に関して紹介させて頂きました。

今回は、番外編としてミャンマー・バングラデシュ編を記載させて頂きます。 筆者が初めて、ミャンマー&バングラデシュに行ったのが、2008年10月の事でした。これは、当時の同業者(繊維貿易関係者)の中でもかなり早かった方だと思います。中国との取引がほぼ全てであった当時の筆者は、ミャンマー・バングラデシュへの出張でとても大きなカルチャーショックを受けて帰ったのを良く覚えて居ます。前回の出張スケジュールの続きとして、詳しく述べて行きましょう。 

アセアン

トピック1 アセアン出張の移動時間の長さと乗り継ぎの多さ

トピック2 バングラデシュの交通

トピック3 初めてのアセアン出張 出張後の報告

トピック4 初めてのアセアン出張報告の総括

トピック5 アセアン出張を振り返って、今思う事

トピック1 アセアン出張の移動時間の長さと乗り継ぎの多さ

バングラデシュ・ミャンマー・カンボジアの繊維産業の視察が目的だった事もあり、

合計で12社の工場を視察しています。

工場から工場への移動時間もそれなりに必要な事を思えば、とても慌ただしい工場視察だった事が伺えます。

また脱線してしまいますが、

移動と言えば以前お話した出張あるあるで、2000年頃の中国のドライバーは運転が極めて荒く移動が命懸けだと云う話をしましたが、、、

ところが、バングラデシュは更にその上を行って居ました。

アセアン出張

トピック2 バングラデシュの交通

中国と同じく、片側一車線程度ある道を、歩行者や、自転車、遅い車を避けつつ、かなり強引な追い越しを仕掛けて行く。と云うのは、中国と同じです。そのバングラデシュが中国と違うところは、やたら大型バスが多いと云う事です。

バングラデシュの交通を支えるバス

バングラデシュは、他の国々と比較すると、鉄道網が殆ど発達していません。そのため、都市と都市との間を結ぶ交通インフラを支えているのは、バスなのです。そして、案内してくれたガイドが理由を話してくれました。

バスの運転手にとって、目的地に早く着く事が良い運転手の条件となって居るらしいです。そのために、それこそ全てのバスがレースをして居るが如く、アクセル全開で突っ走って居るのです。我々が乗って居る乗用車もそれなりにスピードを出しています。ところが、その乗用車をバスが追い越したりするのですから、如何にスピードを出して居るか想像出来ると思います。

恐怖を感じるバスの走行

自分の乗る車の運転手に対いて、安全運転する様に伝える事で、ある程度の危険運転は減ります。しかしながら、周りを暴走するバスの運転手はそんな事お構いなしです、、、

そのバスが少しでもハンドル操作誤り我々の乗って居る乗用車に接触でもしようものなら、乗用車に乗って居た我々はひとたまりも無かったと思います。本当に怖かったのを覚えて居ます。

ちなみに、逆に街中での運転はと云うと、運が良くてノロノロ運転、運が悪ければ大渋滞で殆ど動かないと云う事もありました。しかも、車が多いから渋滞して居る訳ではありません。

ともかく人が多い為に、車は全然進んで行きませんでした。イメージ的には、通勤ラッシュ時の駅の改札口位の人の密集具合が道路上で起こっている感じです。

バングラデシュは、北海道程度の広さの国土に1億以上の人口が居る世界一人口密度の高い国でした。街中は、どこに行っても人だらけだったのを覚えて居ます。 ともかく移動する事にストレスを感じる国、それがバングラデシュでした。

トピック3 初めてのアセアン出張 出張後の報告

商社に関わらず、出張をすると上司や同じ部署の同僚に、情報を共有するために、報告書を作成します。筆者自身の備忘録として、過去の出張を振り返る時に、出張報告書を見返すことがあります。

筆者の出張報告書には、Key Word、国別詳細、総括と括って、アセアン出張後の出張報告としてまとめていました。

そのアセアン出張報告書の内容を、抜粋した形式でご説明します。

KEY WARD                                                                     

“プラス要因 

中国よりも安価かつ豊富な労働力、特恵関税(布帛は組立のみ可、ニット・カットは三工程必要)、追い風の輸出政策。

“マイナス要因 

物流問題(輸送期間は3週間程度)、限られる素材供給、低い労働効率と生産性、

現状のキャパは限られる、欧米向けオーダーとの競争。”       

国別 概要

バングラデシュ

平均賃金 USD40/月程度。ニット&カットソーは、同国内での素材背景有り。紡績、編み立て、染色、可能。国策として繊維産業に力を入れており、輸出の85%が繊維関連。人口も多く、ニット&カットはメリット有る組立可能。

ミャンマー

平均賃金 USD50~60/月程度。経済制裁により対米輸出が出来ない。カントリーリスク低くない。韓国企業多く、布帛商品は第三国から素材供給の加工貿易でも特恵メリット享受出来るのが強み。ただし、実際に日本向けとして使用できる工場は限定的であり、縫製キャパは決して大きくないが、布帛は取引メリット出せる可能性あり。

カンボジア     

“平均賃金 USD80/月程度。国内での素材供給なし、他のアセアン各国と比べ特徴なく、取組みは難しいか?ただし、J社(シンガポール資本) と言う、大変興味深い工場あり。欧米大手SPAアパレルとの取引を主として居り、企業理念、設備、ソフト、技術とも最高レベル。ただし、日本向けが成り立つかどうかは、疑問である。

アセアン・中国の賃金を比較すると

2008年当時の平均賃金が、

と、とても低く衝撃的であった事は、良く覚えて居ます。

当時の中国の平均給与はUSD200程度だったと思うので、その中国の20%~30%の水準でした。

また、国毎に特徴があり、その特徴を上手く利用できれば取組出来る可能性があると云う表現を使って居ます。

繊維産業の例で言えば、

バングラデシュでは、ニット(横編み商品 例:セーター類)や、カットソー(丸編み商品 例;Tシャツ、ロンT等)はメリットがありそう。

ミャンマーは、織物生地の海外からミャンマーに持ち込んでのシャツや、ボトムス生産に可能性を感じています。

いっぽうで、カンボジアに関しては、当時の平均賃金が中国の半分程度ながらも、バングラデシュや、ミャンマーと比べると目立った特徴が無い事もあり、取組の可能性は感じて無かった様です。また、カンボジアで訪問させて頂いた企業が、欧米SPAのG○P社のオーダーを受注して居る工場だったのですが、、、

筆者が担当してオーダー数量を聞くや、その工場としては数百万単位のオーダーをG○P社から受注して居り、筆者のオーダーは細か過ぎて生産出来無いと鼻で笑われたのを今でも鮮明に覚えています。

アセアンに出張した報告書を整理して、下記のような図表にまとめる事もあります。

国別 生産拠点概要比較表(2008年当時)

国別 生産拠点概要比較表(2008年当時)

出張報告書の総括として、以下の様にまとめて居ます。

トピック4 初めてのアセアン出張報告の総括

中国のレベルの高さを再認識

「中国の持つ、品質、技術、納期、産業背景…等、日本市場への対応力は著しく高い!!」 と言う事を、再認識。ただし、その差は明らかに近年急速に小さく成っているのも事実。   

アセアンも仕組みがあればメリットがある

ひとつひとつの国を別々に考えるのではなく、アセアンを一つに捉えその域内での生産を組立する事が重要。例えば、ベトナムで素材を調達して、ミャンマーで縫製(布帛の場合、特恵のメリットあり)と言った生産オペレーションが組立できれば、中国よりも価格メリットは出せる場合も有り。

適切な生産拠点を活用する

トピック5 アセアン出張を振り返って、今思う事

自画自賛となって申し訳ないのですが、

「 たった7泊8日の出張で、三カ国を慌ただしく見ただけなのに、なかなか的を得た良い総括をしているな 」

と云うのが、これを十何年振り返った筆者の感想です。当時の筆者は、30代半ばで文字通り朝から晩まで土日も厭わず馬車馬の様に働いて居た時期でもありました。しかし、自分の業務の先行きに不安を覚えて居る頃でもありました。

それは、長らく仕入先として重宝して居た中国の価格が日に日に上がっていったからです。いっぽうで、日本のデフレはどんどんと加速し、お客さんの希望単価も下がるばかりでした。更には、自分の客先がどんどん中国と直接取引を増やして行く状況でした。その中において、繊維を取引して居る商社として、次の明確なビジョンが描けて無かったからに他なりません。

そんな時に、アセアン出張のチャンスを得て現地を視察させてもらいました。そこで、色々な事を感じて、そして考えて、商社としての次のビジョンを描ける様になったのだと思います。

今思う事

総括の最後にある、

今まで丸投げすれば良かった中国での生産オペレーションをアセアンと言う決して小さくない、そして多様な特徴の国々の集まった生産基地を、それぞれの特徴に併せ総合的に活用していく事が求められる。その情報収集、物流サポート、決済機能・・・と言った総合力がこれからの商社のプレゼンスとなるのでは無いか!! ”

と云う言葉に象徴されて居ると思います。

この出張後に筆者はバングラデシュ、ミャンマーとの取引を始める事となります。それは総括にある通り、希望を持ちって意気揚々と始めた新業務で、そこには明るい未来が待ち受けていると信じていたのですが、、、待っていたのは本当に苦しい試練の様な日々でした。

以下後編に続きます。