筆者は、貿易商社で繊維製品の輸入業務に新入社員時代から30年近く関わって参りました。
その期間の中で、繊維貿易を取り巻く環境も、SPAの台頭など、その取引形態も少しずつ変化して来ました。
前回は、1990年代の繊維貿易に関してお話させて頂きました。
今回は2000年代(2000年~2010年)に関してお話させて頂きます。
先ずは、2000年から2010年の10年間でのアパレル産業を取り巻く市場状況を説明させて頂きます。
長いデフレの始まり、1990年代初頭のバブル崩壊に始まり、日本の不景気は1990年代後半も続きました。
そして、1999年に始めて消費者物価指数
(いわゆるCPI、消費者が支払う商品やサービスの価格変動を示す指標)
が、昨年対比マイナスに転じました。
その後、その傾向は10年以上も続き、長いデフレが始まる事となります。
(どの期間で云うか、何を重視して言うかで異なりますが、失われた10年とか、失われた30年とか、そういう言い方をされます。)
2000年代は、そのデフレが本格的に始まりました。
それにより、消費者マインドはどんどん冷え込みました。
特に消費者にとって身近な製品である衣料品に関しては、より安い製品を求める消費者の要望を答えるべく、各小売店に拠る価格競争が激化しました。
そのことから、繊維業界はとてもとても苦しい時期だったと言えます。
日本の消費者物価指数 1990年(CPI:Consumer Price Index)

この10年で、上代(いわゆる店頭価格)は上がるどころか、どんどん下がって行く。本当に、とんでも無い時代でした。
その究極が、2000年代後半にジーユーが販売した950円ジーンズ。
さらに、その後を追う様にしてイオン、ダイエー、西友が販売した880円ジーンズなどは、その最たるものでした。
この880円とは、子供用のジーンズでは無いですよ。
大人のメンズ・レディスサイズが、この値段で実際に店頭で売っていたのです。
当時は、1000円ジーンズ戦争なんて表現で、新聞や、経済誌でデフレの象徴的な出来事として取り上げられていました。その事を、筆者は良く覚えています。
その様な言葉が世間を賑わすたびに、お客さんの要求する希望値段が、シーズン毎に下がって行きました。
この現象は、現場で働く筆者の様な末端の繊維業界人にとっては、本当に厳しい時代でした。
今となっては良い思い出ですが、、、
2000年当時、私は相も変わらず量販店・専門店に子供服を卸す子供服メーカーの担当をしていました。
お客さんから毎年オーダーを頂いている定番品の引き合いを頂いて、貿易公司で確認をし、お客さんに昨年と同単価ですと見積回答をした時の事です。
私は、てっきり、
「じゃあ今年も発注お願いね!!」
と、言われると思って居たのですが、お客さんが言ったのは、
「店頭の販売価格は急激に下がっているんだから、この見積ではとても取引は出来ないよ。この値段だったら、僕が君に売っても良い位の値段だよ!!」
と、予想だにしない返事でした。
要は、私がお客さんに提示した見積価格は、そのお客さんのお客さん(量販店、ディスカウントショップ)に卸す値段よりも高かったです。
何と、たった一年でそこまで市場価格が下がっていたという事でした。
これは、少し極端な話かも知れませんが、この様な凄まじい事がいたるところで起きていました。
その様な市場の低価格重視のニーズに答えるために、繊維業界は2000年代に入ると様々な変革を強いられる事となりました。
例えば、下記のような事です。
一部のメーカーは、商社を飛ばして貿易公司と直接取引する 。
これらからわかるように、全ての市場参加者が、激化する低価格競争に対応するために、それぞれの立場でそれぞれの方法で新しい取り組みを始めて行く事となります。
そして、その究極は小売業に於けるSPAの躍進に繋がって行きます。
既述の通り、繊維製品に対する消費者の低価格重視の要望に応えるため、小売店側の変化も余儀なくされます。
販路別の売上推移をみると、1990年代迄の主役だった、百貨店・量販店の売上が徐々に下がりました。
そして、一方で、各種専門店、具体的には、
ロードサイド専門店(ライトオン、しまむら等)、
SC(ショッピングセンター)内にある専門店(グローバルワーク、アースミュージックエコロジー等)
の売上が徐々に増えて行きます。
そして、大きく躍進する事になるのがSPAとなります。

「Specialty Store Retailer of Private Label Apparel」の略で、日本語では「製造小売業」と訳されます。
製造小売業とは、企画・製造から卸売、小売までの一連のサプライチェーンを統合し、その流通過程で享受する収益を独占する代わりに、最終顧客に対して従来のサプライチェーンによる場合よりも安価で迅速な商品提供を可能とするビジネスモデルです。
日本で言えば、ユニクロを展開するFR(ファーストリテイリンググループ)や、無印良品を展開する良品計画、ニトリが有名です。
そのSPAが大きく躍進したのも、この2000年から2010年の10年の大きな特徴です。
各社とも、誕生自体は1990年よりも前ですが、その企業規模が拡大して、本格的にSPAと言われる業務形態になってきたのは、この10年間での出来事です。
FRグループ、やニトリともこの2000年から2010年への10年間で売上を大幅に伸ばして居ます。
ちなみに、ちょっと脱線しますが、FRグループ、ニトリのそれぞれの1990年~2020年の30年間に至る10年単位での売上推移をみて行くと、
30年間で 売上高400倍 約2兆円の売上増。
| 年代 | 売上高 |
| 1990年 | 51億円 |
| 2000年 | 2300億円 |
| 2010年 | 8100億円 |
| 2022年 | 2兆円 |
30年間で 売上 60倍 約7000億円の売上増。
| 年代 | 売上高 |
| 1990年 | 132億円 |
| 2000年 | 490億円 |
| 2010年 | 2900億円 |
| 2022年 | 7200億円 |
両社ともこの期間で凄まじい成長を遂げています。
今回この記事を書くに当たり、改めて感じた事があります。
1990年代の創業当初の売上がまだ少ない状態からの急成長はよくある話ですが、両社とも2000年代にそこそこの売上規模がある状態から更に成長し、更にはそれを10年以上も継続し成長し続けました。
この事は、本当にすごい事だと思います。
筆者も何社かのSPA企業と実際に取引をする様になるのですが、それは、まだまだ後の話です。
では、2000年当時の筆者の経験談に基ついての繊維業界の話に戻りましょう。
出典
Fast retailing IR情報 https://www.fastretailing.com/jp/ir/
ニトリIR情報 https://www.nitorihd.co.jp/pdf/annual.pdf
筆者のいた名古屋は、いわゆる名岐地区のアパレルメーカーが多数存在していました。
所属していた部隊もその多くを客先として取引をしておりました。
しかしながら、そのお客さんを飛び越えて販売先を直接アパレルや、小売店へシフトすると言のは、商慣習的にも抵抗がありました。
筆者の居た部隊では、より安い生産コストを追及して行く方針を取っていました。
具体的には、貿易公司では無く工場との直接取引を、開始しました。
さらに、貿易公司を使うにしてもより奥地にある貿易公司と始めました。
例えば、上海では無く南通の貿易公司と取引を始めるなどの事を実際に始めて行きました。
工場と直接取引をする事で、貿易公司の管理マージンの部分を削減出来、その分安く仕入れるのが目的です。
全てのオーダーをいきなり全てシフトするのでは無く、比較的簡単な仕様(シンプルなデザインと云う事)で、数量も多い、そして値段の厳しい商品をお客さんとも相談しながら発注していました。
私も実際に、2000年頃に貿易公司を通さずに南通の工場と直接取引を始めました。
工場との直接取引は、色々な面で貿易公司経由の取引に比べて不便な点がありました。まず第一に思い出されるのが、“場所の問題”です。
仮に工場を訪問するにしても、上海まで飛行機で行き。その後、そこから更に車で4時間から5時間移動しなければならず、とても不便を感じたのを覚えています。

その頃は、まだ上海から南通に行く場合、長江をフェリーで渡る必要がありました。
当時は、フェリーを使っていた為に、とても移動の時間が読み難かったです。
フェリーに乗っている時間は、30分程度でした。しかし、ともかく待ち時間が長いのと、中国式の割り込み合戦が凄まじく、フェリー乗り場はいつも大渋滞でした。
運が良いと3時間ちょっとで上海~南通間を移動できました。しかしながら、運悪く渋滞にハマってしまうと5時間近く掛かる事もありました。
今は、南通長江大橋(2005年に完成)も出来ており、全工程を高速で移動できるようになりました。
隣町に行く感覚でサクッと2時間程度で行けます。
当時の事を考えると、橋が開通する前の移動は時間が掛かり本当に不便でした。
中国での出張あるあるです。
当時の中国のドライバーは本当に運転が荒く、何度も事故に遭いそうな目に遭いました。
2000年頃の中国では、上海や北京の都市部を除き殆どの場所で高速道路が開通していませんでした。
更に、センターラインすら引かれていない田舎道を走ることが多かったです。
一応、トラックがすれ違えるくらいの幅はありましたが、ひたすらその道を進んでいく感じでした。
その田舎道には、
などが、それぞれの速度で、思い思いに(右にふらふら、左にふらふら、突然鋭角に方向転換したり)走っていました。
それは、まるでマリオカートに出てくる障害物のようでした。
そのことから、比較的速度の速い車に乗っていた私たちは、常にそれらを追い越す必要がありました。
当然、対向車線にも遅い車がいて、それを追い越そうとする車があります。しかし、道幅はそれぞれが追い越しするほどの幅はありません。
そのため、お互いが追い越そうとすると真ん中でぶつかりそうになります。
そうならないように、反対車線の追い越しがないことを確認してから、追い越しするべきなのです。
ところが、その追い越しを仕掛けるタイミングが明らかにおかしいのです、、、
どう見ても、反対車線の車が追い越ししようとして道の中央に出てきているタイミングで、こちらも追い越しに入るため、正面衝突しそうなタイミングになってしまいます。
ぶつかりそうになったらそっちが避けろと言わんばかりに、アクセル全開で突っ込んでいきます。
まるで、チキンレースのようでした。
乗ってる立場としては、とても怖い為に、シートベルトは必須でした。
どんなに疲れていても、眠る事さえ出来ませんでした。
これは、本当にどこの地域の、どの工場に手配してもらった車に乗っても同じような運転でした。
当時中国に出張に行っていた人は、同じような経験をしていると思います。
幸い、私の知っている人で実際に事故に遭い命に関わるような目に遭った人はいませんでした。
それでも、道に落ちたり、車同士の軽い接触事故くらいの経験はみんなあったと思います。
さすがに、日本から出張して来るお客様を、そのような危険な目に遭わせるわけにはいかない!
と、中国の工場側も考える様にもなり、徐々に運転も粗さが無くなって行きました。
2010年頃には、本当に安心しリラックス出来る落ち着いた運転となりました。
そして、安心して移動の車中でも寝れる様にはなりましたが、、、
こうして書いてみると、車の運転でも2000年から2010年は大きな変化があったのだと思います。
本当に大きな変動の10年だったんだと思います。
長くなって居るので、とりあえず今回はここまでとさせて頂きます。
次回は、工場との直接取引が貿易公司経由の取引に比べて不便な点をお伝えします。
取引の方法、商習慣の部分に関して記載させて貰います。
更に変化の10年に関して、詳しく説明させて頂きます。
◇製作協力
株式会社JJコーポレーション 吉田修さん
公開 2025年1月9日 | 最終更新 2026年1月30日