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貿易と通関の今昔~繊維商社アパレル貿易の舞台裏 5

~ 2000年代の商社の繊維貿易 その3 ~

こんにちは。

前回より引き続いて、2000年から2010年の10年の繊維貿易に関して紹介させて頂きます。

2000年は、デフレが進みました。そのデフレ下の中、市場の低価格重視のニーズに答える為に、繊維業界は、様々な変革を強いられる事となりました。

筆者の所属していた部署に変化がありました。それは、より安い製品を求めて、中国側での工場管理、品質管理、納期管理を行う貿易公司(以前の記事参照)との取引を減らしました。貿易公司のマージンを無くす事で、より安く製品を仕入れする事が可能なりました。その過程において、工場との直接取引を増やして行きます。その詳細は、前回の記事で紹介させて頂きました。生産フローを変化させる事で、デフレ下に対応しようとしました。

当然ながら、それ以外にも、デフレ下に対応するための様々な変化がありました。今回は、その事を話させて頂きます。

トピック1 アパレルメーカーの直接貿易

トピック2 OEMとODMの普及と発展

トピック3 新しい国々との取組

トピック4 まとめ 

変革

トピック1 アパレルメーカーの直接貿易

メーカー直貿のはじまり

2000年頃から始まった事です。一部のアパレルメーカーは、それまでの商社を介して中国生産して居た取引を、直接貿易公司に発注する取引に切替えて来ました。それらの貿易公司は、日本語も話せ、生産管理能力、品質管理能力に長けていたので、別に商社を通じて発注しなくても簡単に中国での生産が出来てしまうからです。こうする事で、少なくとも商社マージンを削減できるために、コスト削減効果はありました。これは、「商社とばし」や、「メーカーの直貿」の様に言われていました。

こうした動きは、いきなり切り替わった訳では無く、少しずつ何シーズンも掛けて切り替わって行きました。なので、同じ貿易公司に、商社経由のオーダーと、お客さんの直貿オーダーが混在すると云うあべこべな状況もあったりしました。

正直、お客さんも我々商社が紹介した貿易公司と直接取引などして、、、

商道徳上も問題ありそうな事も平然と行われていました。

直接貿易の外部要因

第3回では、SPAの飛躍的な成長を紹介しました。そのSPAは、アパレルメーカーが商社を介さずに貿易を始める事を促しました。SPAは新しいビジネスモデルでした。SPAは、川上から川下までのすべてを自社で統合する事によって、低価格化を実現しました。そこで、日本国内での取引に専従してきたアパレルメーカーが、SPAのビジネスモデルを参考にしました。その流れの中で、アパレルメーカーは、より川上に近い中国の貿易公司と繋がっていきました。

中国の経済情勢や制度の変化も大きく影響しています。例えば、改革開放の推進、外貨規制の緩和、対外貿易の奨励などです。これらの経済改革が、中国企業の対外貿易を加速化させていました。貿易公司は、販路を新規開拓し、ビジネスを拡大させようとしていました。そこで、中国との直接取引を模索しているアパレルメーカーと需要が一致しました。

商社との取引を継続する理由

この頃は、商社の役割としては保険の様な使われ方をする事も出て来ました。直接輸入した方が仕入コストは削減できます。しかし、品質リスク、納期リスクの発生しそうな製品に関しては、引き続き商社に発注を継続していた為です。定番商品などの、比較的デザインもシンプル(簡単で品質不良のリスクが低い)で数量もまとまって比較的長い生産リードタイムがある様な商品は自社の直貿でおこなっていました。別注品など比較的凝ったデザイン(複雑な為に品費リスクが高い)で、トレンドを見極めてからの発注となる為に生産リードタイムも短い製品は、商社に発注とかいう感じでした。

保険ついでに言うと、信用面での商社与信とか云う言われ方もありました。これは、わざわざ商社を通じて購入する事で対外的にその商社から与信枠(商品を買う枠)が付いて居る事をアピール出来ました。当時は信用不安先、いわゆる業績が悪く潰れる可能性があると対外的に噂が出たりする会社にとって商社の与信枠が付いている事は、その会社の業績は問題無い、しばらくは倒産しないとその商社は判断して居ると云う事を、アピール出来る材料でした。

運転資金を必要とする直接貿易

また直貿をする場合は、LCいわゆる取引信用状を開設しなければなりませんでした。その場合、銀行にそれなりの担保として、銀行口座に資金を要求される事が多かったです。その為に、直貿をしたくても資金が不十分な場合は、足らない部分を商社を通じて買う取引などもありました。

当時は、月末締め翌月末払い60日手形(場合に拠っては、90日手形の場合もあり)などが主流でした。そのため商社から仕入れした時の場合に比べて、直貿は大幅に資金を必要としました。納期管理、品質管理、貿易決済まで全て行う直貿は、資金に余裕のあるアパレルメーカーしか出来ませんでした。

資金に余裕のないアパレルメーカーなどは、インデント取引やスルー取引などをする事も多かったです。それは、納期管理、品質管理は全てアパレルメーカーが行い、商社が行うのは貿易面の決済のみ。品質、納期に関しては一切責任を負わないという契約を結び、それを商社は通常の取引よりは低マージンで受注していました。

ただ、これらインデント取引とかスルー取引も、自分で直貿を出来ないような信用不安先に対して低マージンの取引を行うと云うのは、あまりにも商社にとってリスクが高かったので、、、

基本的には断るケースが多かったです。

2000年代初頭の。デフレ経済の中で低価格競争が激化する中、商社とアパレルメーカーとの取引形態が多様化した時期でもありました。

トピック2 OEMとODMの普及と発展

アパレルメーカーが商社を飛ばし海外から直接仕入れる動きとは反対に、商社が直接小売業との取引を行う動きもこのころから活性化しました。

いわゆるOEM(Original Equipment Manufacturing)やODM(Original Design Manufacturing)と言われます。

OEMとは

他社ブランドの製品を製造することを指します。

ODMとは

デザインから製造までを一括して請け負うビジネスモデルです。

デフレ経済が進行し、消費者は低価格商品を求めていました。そのため、商社は自分たちをメーカーの様に機能強化しました。OEM事業やODM事業と称し、品質とコストを両立させました。特に、中国の工場との協力し、そして物流面まで強化して、効率的かつ低コストで製品を製造して小売店まで供給することが可能になりました。

ただ、これにも当然弊害があります。今までのお客様を飛び越えて、お客さんのお客様と取引する事が色々な摩擦が生じる事は想像に難く無いでしょう。前回の記事での説明した通り、筆者の部署は以前からのお客さん(アパレルメーカー)との関係を保っていました。ところが、別の部署がお客さんのお客様である小売企業との商売を進めた事により、筆者の部署にクレームが入ると云う様な事が本当に多くありました。筆者のお客さんとしては、部署は違うとは言え自分が仕入れして居る会社が自分の商売敵になるのは心情的には許せなかったのだと思います、、、

変革する商社のビジネスモデル

それ以外の問題として、商社にとって慣れない小売店との取引は色々な意味で、大変だったと云う話も良く聞きました。お客さんの発注に基づいて生産したが、製品がまったく売れずその在庫の引取り交渉が大変だったとか、製品の不良が店頭で発生した場合は大きなマーケットクレームに繋がってました。日本中の店舗からその製品を回収したり、その製品に代わる代替品の提供、それに伴う機会損失の値引き等、アパレルメーカーと取引した時では考えられないような費用が発生する事もあったと聞きます。

ただ、こういった負の側面を補って余りあるメリットがあった為に、OEM事業やODM事業は商社の新たな成長の機会をもたらしました。OEMやODMの普及は、繊維商社の役割を大きく変えるとともに、日本の繊維産業の新たな可能性を切り開くきっかけとなりました。2000年頃から始まった商社のOEMやODMは重要なビジネスモデルとして、10年以上発展を続けて行く事となります。

トピック3 新しい国々との取組

労働集約型から資本集約型への転換期、変革のはじまり

メーカーが中国の工場と直接取引する様になる事。商社のOEM事業やODM事業への取組。これらの貿易形態の変革も、生産地が中国であったと云う事は変わりませんでした。2000年代後半になって来ると、中国以外の第三国で生産すると云う話も、ちらほらと聞こえて来るようになりました。

チャイナプラスワンと称する事もありました。

その頃の中国と言えば、、、

中国の成長、存在感の高まりが、日に日に高まって居る状況でした。例えば、北京オリンピック(2008年)、上海万博(2010年)といった、世界的なイベントが中国で行われる事が決まっていきました。それは、中国が“世界の工場”としての成長し続けた事で為し得たと言えます。しかし、それは逆説的に言えば、この成長が続けば賃金上昇がどんどん進み、労働集約型の典型とも言える繊維産業の生産工場の立地に適さなくなる可能性が出て来た頃でもありました。

新たな労働力を求めて

筆者の部署は、その様な先見的な視点に基づき、新たな生産拠点を探しました。その当時、殆ど注目されなかった地域へオーダーを入れる様になります。それは、バングラデシュ、ミャンマーです。バングラデシュは、安価な労働力と豊富な労働力が魅力でした。いっぽうミャンマーは、人口自体はそれほど多くない国です。ですが、農業以外にこれと言った産業が無い為に、労働集約型の繊維産業を受け入れる素地が高かった事が要因です。

これには、当時の筆者のメインの取引先の要望で始まった経緯もあります。中国からの仕入れに関しては、既にノウハウも蓄積されており彼らアパレルメーカーが自分たちで問題無く直貿出来る様になってました。その様な客先に対して、商社が売上げを維持拡大して行く為には、常に安い工場を求めて、より中国の奥地に行くか、バングラデシュや、ミャンマーと云った新しい国での生産工場を開発して行くしか道がありませんでした。

変革を求めたパイオニアとしての苦労

筆者は、その客先の担当をしていた事もあり、ミャンマー、バングラデシュへ頻繁に出張を行く様になりました。

ちなみに、これは主観ですが、このミャンマーやバングラデシュへオーダーを動かす動きは、かなり時流の先に言って居たと思います。日本向けのオーダー経験のある工場も殆どありませんでした。

新しい取り組みに、まだ30代であった筆者も意気揚々と取り組んだのですが、、、

それは、想像を超える苦難の連続でした。

結果として、その時は大きな損失を出してバングラデシュや、ミャンマーでの取り組みは終わる事となります。なぜならば、まだまだ2008年~2010年の時には、現地の工場側に日本向けオーダーを生産するノウハウも経験が無かったためです。そして更に、発注者である商社側にもバングラデシュ、ミャンマーと云った国での生産管理ノウハウが無かったです。

ただ、これらの試みは、繊維業界における商社の新たなビジネスチャンスを創出し、将来的な成長の基盤を築く重要な一歩となったのは事実です。繊維業界全体の生産拠点の多様化を促進し、リスク分散にも繋がりました。中国一極集中からの脱却を図ることで、商社は安定した供給体制を構築し、競争力を維持することができたのです。

アセアン、ミャンマー

トピック4 まとめ 

繊維貿易の変革期

2000年代の繊維貿易に関して、数回に分けて筆者の体験談も交えながら紹介させて頂きました。 

ご説明した通り、2000年からの進んだデフレ下の中、市場の低価格重視のニーズに答える為に繊維業界は多くの変革を強いられる事となりました。繊維貿易にとっては、大きな変革期であったと言えると思います。

 

商社はそれまでの主流であった貿易公司との取引を徐々に工場との直接取引にシフトチェンジしてアパレルメーカーに対しより安く製品を供給したり、逆にアパレルメーカーは商社との取引を減らし貿易公司と直接貿易をする様になったり、更には一部の商社はアパレルメーカーを飛び越えて直接小売店と取引をするOEM事業もしくはODM事業を始めるに至りました。それらは、その後何年にもわたって商社の繊維事業の収益源となって行く事となります。

アセアン・バングラデシュやミャンマーへ

また、今は大きな潮流とも言うべきチャイナプラスワン、脱チャイナの原点とも言える中国以外への生産国へのシフトへの取組も始まったのもこの頃です。中国との取引とは違い、アセアン諸国、インド・バングラデシュ、ミャンマーなどの国々との取引は色々な面で苦難が伴います。私自身も、バングラデシュやミャンマーとの取引で本当に苦労させられました。

しかしその苦労は、繊維貿易の昨今のアセアン諸国との取引拡大に繋がって行って居るのは間違いありません。

次回は、 2000年代の繊維貿易 番外編 として、筆者の経験したミャンマー・バングラデシュ生産 での色々な苦難の話を記載させて頂きます。