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貿易と通関の今昔~繊維商社アパレル貿易の舞台裏

2010年代編|SPA時代の到来と、商社の役割転換

本稿では、2010年代に起きたSPA台頭と商社の役割転換について、現場経験をもとに振り返ります。

SPA, apparel

新シリーズのはじまり

デフレ下の繊維産業 | 2000年代

繊維商社とメーカーとの取引の終焉

繊維商社のOEM・ODM事業

新シリーズのはじまり

本シリーズ「貿易と通関の今昔~繊維商社アパレル貿易の舞台裏」では、

1990年代、2000年代と、日本の繊維商社が歩んできたアパレル貿易の変遷。これらを、現場の視点から振り返ってきました。

2000年代までの繊維貿易は、メーカーを中心とした商流が主流でした。

その商流のの中では、商社が「生産をまとめる存在」として機能していた時代だったと言えます。

価格競争、デフレ、海外生産の拡大。

その中で商社は、泥臭くも実務力で価値を発揮してきました。

しかし2010年代に入ると、その前提が大きく揺らぎ始めます。

そして、商社に求められる役割も、「作る」から「支える」へと変わっていきました。

2000年代と2010年代の商流構造の違い

本章 【2010年代編|SPA時代の到来と、商社の役割転換】 では、

グローバルSPAとの取引を軸に、

そして、高度化していく生産進捗管理の実態を、筆者自身の体験を交えて紹介していきます。

一見すると、2000年代の延長線上に見える2010年代。

しかしその内側では、2010年代のはじまりに、繊維商社の仕事の質も、価値の置き所も、静かに、しかし決定的に変わり始めていました。

まず初回では、メーカー取引が終焉を迎え、OEM・ODMが本格化していく過程を紹介します。

その渦中にて、筆者自身が経験した異動を通して、2010年代の幕開けを振り返ります。

挨拶

こんにちは。

筆者は、商社で繊維製品の輸入業務に新入社員時代から30年近く関わって参りました。

その期間の中で、繊維貿易を取り巻く環境も、その取引形態も少しずつ変化して来ました。

前回迄は、1990年代の繊維貿易2000年代の繊維貿易とお話させて頂いて参りました。

今回からは、2010年代(2010年~2020年)に関してお話させて頂きます。

2010年と云うとつい最近の様に感じでしまいます。それは、筆者が年を取った証拠なんだろうなと感じてしまいます。

しかしながら、実際は今から15年の前の話になります。

その頃は、まだ社会人になりたての人、まだ学生だった読者の方も多いのではないでしょうか??

デフレ下の繊維産業 | 2000年代

その頃の時代背景を振り返ると、

日本の小売業界は、長らく続く、深刻なデフレ下でした。その状況下では、価格下落圧力に悩まされ続けていました。

デフレと価格競争が商流を変えた背景

その中でアパレル産業は、特にデフレの象徴の様な扱いをされていました。

大手量販店や、大手SPAによる、1000円ジーンズ戦争とかも勃発していました。店頭での小売価格は右肩下がりで安くなって行き、その価格変化に対応を迫られました。

その為に、アパレル産業では、メーカーが商社を外して海外の仕入先と直接取引していました。

いわゆる直貿(直接貿易の略)です。

その逆に、商社がメーカーを外して小売に売りに行ったりもしていました。

このような、商流の変化が起こりました。

繊維産業は、ローコストの生産オペレーションが必要でした。そこで、より田舎より辺鄙な地域での生産をする事で人件費を抑える手法もありました。

そして、筆者の居た営業部隊では、この仕組みを目指す動きも取りました。

繊維商社のOEM・ODM機能

商社がアパレルや小売りに直接販路を広げる動きもこの頃、さかんに行われる様になりました。

それは、今までメーカーを介して小売り先に販売していたのを、メーカーを飛び越えて直接小売りに販売する事で、メーカー分のマージンを削減出来る事となりました。

その分、小売り側の低価格重視に対する対応力が高まる事となります。

その為に、商社は今までも生産を主体にしていた機能に留まらず、企画開発機能を商社自身で出来る様に業態変化して行きました。

これがいわゆる商社のOEM・ODM機能です。

生き残る

この様に2010年頃も繊維産業に関わる人の多くの人が、商社、メーカー、小売りと立場は違えど、相も変わらずデフレに悩まされ続けていました。その中で、文字通り生き残りを掛けて何とかデフレの中で生き残って行こうともがき苦しんで居た様に思います。この生き残って居ると言う表現は本当に適切かと思います。本当にアパレル産業に従事する人の多くが、長いトンネルに迷い込んだ迷子の様になっていました。

利益を上げる事が困難な状況下

筆者も、担当営業として自身の営業目標を達成すべく、担当客先への営業活動に日々邁進していました。以前お話した通り、筆者のお客様は名岐地区(名古屋・岐阜)のメーカーです。

商流としては、メーカーが企画した製品を商社が海外に発注しメーカーに納品、メーカーがお客さんであるアパレルや小売りに販売すると云う流れです。

デフレ対応の為に、そのお客さんの多くが自社で直接中国との取引も同時に行っていました。数量も多く、納期も余裕もあり、簡単な仕様のオーダーは、お客様が自ら中国の取引先へ発注します。

一方で、我々商社が獲得できるオーダーは、数量も少なく、納期も短く、複雑な仕様の難しいオーダーでした。アパレルや小売りは、リスクヘッジの意味も込めて、我々に発注していました。

その様な状況の中で、利益を以前の様に上げていく事は、正直不可能な状況でした。

また、その様な状況を打破すべく始めたバングラデシュ・ミャンマーでの生産オペレーションも、思う様な結果が出せず、失敗に終わったのは前回の記事の通りです。

それでも、当時の筆者は、少しでも状況を好転させようと、土日も厭わず日々筆者は馬車馬の如く働いて居りました。今風の言い方をすれば、完全な社畜ですね。。。

突然発令された筆者への辞令

そんな時に、ある日突然辞令が下される事となります。名古屋の営業部隊から、東京本社の営業への異動辞令です。まさに青天の霹靂とはこの事でした。

思い返せば、筆者はそれを始めて聞いた時は本当に信じられなく、その事実を受け止める事がしばらく出来ませんでした。

筆者としては、ミャンマー・バングラデシュの新規仕入先開拓で、思ったような結果を出せず失敗していました。

とはいえ、もともと高難度の取組で筆者以外にその業務を担当できる人は居ない。と自負を持って居た事もあり、自分が異動する事はあり得ないと思っていました。

その時は、本当にその異動を決定した当時の部長に対して不信感と不満しか感じませんでした、、、

どうして、部長は筆者の努力を見てくれないのか?

筆者しか出来ない事をやって居るのに、この異動はどう考えても理不尽だ

会社にとっても不利益でしかない、、、

とかとかです。

しかし、異動の話を始めて聞いたのは、実際に移動する2週間前位でした。納得するとかしないとか言って居る場合ではありませんでした。

そして、他の会社もそうでしょうが、当時はいちサラリーマンとして、異動転勤の話を断れる様な風土も雰囲気もありませんでした。

転換期

ただ結果として、筆者の繊維商社としてのキャリアを考えると、この異動は大正解だったと言えますが。その事が判るのは、そのずっと後になってからの話です。

今改めて考えると、当時の筆者は商売がうまく回っていませんでした。

ともかく朝から晩まで仕事をする事で、言い方は悪いですが、自分を誤魔化して居たような気がします。あのままであれば、身体も、心も壊れて居たかも知れません。。。

そんな筆者を見かねて、当時の部長は一度リセットボタンを押し、新たにやり直すチャンスをくれたのではないかと思って居ます。

そう考えると、今となってはその部長には感謝しか無いです。

しかしながら、当時の筆者は全く納得できず、ヤケ酒を飲みながら不平不満を言っていたのを覚えて居ります。

東京への異動

筆者の新しい異動先は、東京の営業部隊でした。

その部署は、筆者のそれまで取り扱って来た商品群とは全く異なりました。

また、その部署に知人も一人も居ませんでした。同じ社内でしたが、本当に転職する位の感じでした。

私も異動先の人達を知らない様に、向こうも私の過去の経歴等は知られていませんでした。まったくサラの状態から出来たのは、ある意味とても良かったです。

繊維商社とメーカーとの取引の終焉

ちなみに、当時の筆者が居た部隊は、筆者が異動した後2年で解体される事となります。

筆者に東京行の事例を出した部長は課長に降格になりました。

そして、筆者の同僚も、それぞれ別の部門(繊維以外)へ異動しました。筆者の様に東京の他の繊維部隊へ異動する人もいました。

その結果、筆者の会社の名古屋の繊維部門は、無くなる事となりました。

思い返せば、筆者が入社した1997年頃、名古屋のアパレルメーカーへの商社の輸入取引は、とても好調でした。

入社1年後の3月末の決算では、繊維部門の中で一番業績が良かったとして表彰もされて居た位です。つまり、その時がピークでそこから徐々に衰退の一途だった様に思います。

それは、

  1. メーカーが企画した製品を商社に発注
  2. 商社が海外で生産してメーカーに納品
  3. その後、メーカーが小売りに販売する

と云う、、長年繊維業界での主流を極めて来た商流の終焉を、意味して居ると思います。

デフレに対応する商社

デフレ下に対応する為には、いわゆる中間業者をどんどん無くす事で、コストを抑えて行くほかありませんでした。

メーカーは、商社を飛ばしてどんどん直接アパレルや小売りに売りに行きました。

逆に、それなりの規模が有り、資金力のあるメーカーは、商社を介さずに直接海外(その多くの場合は中国)の取引先から製品を輸入する様になって行きました。

取引先の変化

そして繊維商社にとっての主要な取引先はメーカーから、アパレル、小売り、SPAにシフトして行く事となります。

ある意味、筆者の居た名古屋の営業部隊は、その時代の流れに逆らって従来のメーカーとの取引に固執していました。

時代の変化に柔軟に対応出来ず、その結果として組織解体と云う悲しい結果になってしましました。

筆者自身も、それ以外の道は無いと盲目的に信じて目の前の仕事に集中していました。

従来への固執

前置きが、物凄く長く、筆者の思い出話ばかりになってしまいました。

ここで話を基に戻すと、

多分この当時の繊維産業の従事者は、多かれ少なかれ筆者と同じ様な状況になって居たのではと思います。

盲目的に目の前の業務を一生懸命に取り組む事こそが正で、それ以外に正解は無い、と云う思い込みに取りつかれていました。

実際は、物事を解決する為には様々なアプローチがあります。そこから色んな道が開けて来るはずなのに、、、

今までのやり方に拘り過ぎて、変わる事が出来ずに衰退して行くような感じです。

時代の変化が起きるときは、それにいち早く対応しなければならない。それににも関わらず、いつまでも従来のやり方に固執してしまう、、、そんな感じです。

前置きとしてはちょっと長かったかも知れませんが、2010年の筆者の異動の体験を紹介させて頂きました。

2010年頃までの繊維商社の収益基盤の柱で会ったメーカーとの取引が遂に終わった。

この事が筆者の異動へと影響した、繊維産業の転換期を象徴的に捉えた出来事とも言えます。そのため、紹介させて頂きました。

繊維商社にとっての2010年代の繊維貿易

商社にとっての2010年代の繊維貿易は、上記のようなステージに移行して行く事となります。筆者は、新たに赴任した部門で、SPAとの取引を主に担当する事となります。

SPAモデルの強みと、商社に求められる新しい役割

繊維商社のOEM・ODM事業

OEMやDMとは?

2010年代の繊維商社のビジネスを語るに当たり、今回の記事では、OEM・ODMの更なる成長に付いてお話させて頂きます。

以前の2000年からの10年の繊維産業を振り返った記事で、OEM(Original Equipment Manufacturing)やODM(Original Design Manufacturing)が、その時に起こった事を紹介させて頂きました。

OEMとは、他社ブランドの製品を製造することを指します。

ODMは、デザインから製造までを一括して請け負うビジネスモデルです。

デフレ経済が進行し、消費者が低価格商品を求める中、商社は自分たちをメーカーの様に機能強化しました。それにより、OEM事業やODM事業と称し、品質とコストを両立させました。

特に、中国の工場との協力し、そして物流面まで強化しました。それによって、効率的かつ低コストで製品を製造して小売店まで供給することが可能になりました。

OEM/ODM/SPAの役割範囲の比較

2000年代の繊維産業の変革

商社のOEM・ODM事業は、2000年代から始まりました。バイヤー側の立場のアパレル企業、小売りにとって、商社のOEM・ODM事業が、デフレ下に伴う収益の悪化を改善する救いの手になりました。

2000年前後、当時の百貨店アパレルとして有名なOWK山や、SY商会などは、経常利益が殆ど無いか、赤字企業でした。そこから徐々に業績を回復させていきます。

それは様々な要因があるかも知れませんが、商社のOEM・ODM事業を基に仕入れ構造を変化させて、収益基盤が盤石になった事も原因の一つでは無いでしょうか??

また、イオンなどの郊外モールに専門店を多種多数な出展するA社なども、商社のOEM・ODM事業をメインの仕入れ先として活用して、2000年以後大きく成長して行った企業です。

2010年代以降の繊維産業の変革

2010年代以降になると、商社のOEM・ODM機能はより発展して居ました。具体的には、自社のブランドを立ち上げました。但し、筆者の会社では失敗して直ぐに無くなりました。

そして、繊維商社自身が製品の展示会を実施しました。

そこでは、自分たちの考えるトレンドや、製品やサービスを紹介して、顧客からの受注を獲得する様になります。

筆者が東京に異動した2010年は、筆者の会社でも展示会が少しずつ行われる様になって来た頃でした。

今までは、自分のお客さんであったメーカーが展示会を開催するにあたって、展示会サンプル(要は展示会に展示するサンプルを)手配してばかりでした。

そのような筆者にとって、自分の会社が展示会を開催する事に、物凄く新鮮な印象を持っていました。

六本木や青山などのおしゃれな場所を借りて行われる展示会は、洗練されていました。そして同時に、とてもかっこよく見えました。

2010年代の繊維商社人材の変化

当然ながら、OEM・ODM事業をやる為の人材確保も必要不可欠です。

上記のような職種の多くの人が、商社で採用される様になります。その多くは女性なのですが、会社に多くの若い女性が働いていました。

そのため、事務所がとても華やいで見えて居たのを、筆者は覚えて居ます。

名古屋の事務所には、営業男性と事務のベテランのお姉さんしか居なかったです。そのギャップを強く感じました。

名古屋から転勤してきた筆者は、東京の繊維部隊の活気と華やかさにとても面喰ってしました。この事を今でも良く覚えて居ます。

その後、繊維商社のOEM・ODM事業は現在も収益の柱として変化をしながら機能強化を図っています。

この事は、皆様の御周知の通りかと思います。

以上、2010年代の繊維商社の貿易 その1)を書かせて頂きました。

個人的な異動の話ばかりとなってしまいました。

この2010年代頃は繊維商社の稼ぎ頭であったメーカーとの輸入取引が、終焉を迎えた時期でもありました。

そして、筆者の異動はその典型的な事例でもあったので紹介させて頂いた次第です。

次回の記事では、筆者の異動後の部署で担当したSPAとの取引について説明させて頂きます